前略
生きてまだまだ笑わせたいと思ってたに決まってるじゃん!
の館長です。
志村けんが身を持って新型コロナの恐怖を教えてくれたというツイート
志村けんが亡くなった直後から、Twitterにはその死を悲しむツイートがあふれましたが……。
なかにはこんなツイートやこれに類するものも多く見られました。
これらのツイートに違和感をいだきながらも、ざっとタイムラインを眺めていたんですけど……。
このように、松井一郎大阪市長という、地位も名誉もあろうお方までもが同じようなことをツイートしてるのを見るに及び、少々の憤りさえ覚えてしまい、思わずツイートしてしまったのでした。
志村けんの死を、コロナの恐ろしさを伝える道具にするの、ヤメれ。
? 館長 (@G_Chips) 2020年3月30日
「志村けんがコロナの恐ろしさを身をもって教えてくれた」とか言うの、ヤメれ。
そんなんじゃないから。
“志村けんの死” が、結果的に怖さを教えてくれたというのならまだ分かりますけど、 “志村けん” が、死をもってそんなもん教えようとするわけがないです。
というか、教えてくれなくていい。
彼は自分が新型コロナウイルスに感染したことさえ分からなかったであろうと言われているのに。
誰かが亡くなった直後くらいは、その死を悲しむだけでいいのに、どうしてその死に「価値」とか「意味」を見出そうとするのでしょうか?
死ぬときまでみんなに何かを与えて死ななきゃいけないの?
まして志村けんです。
もうさんざんもらったじゃないですか、僕らは、彼に。
死をもって僕らに何かをくれようとしなくていいから、ただ生きてくれ! としか言いようがないです。
「死を無駄にするな」という物言いにも、どうしてもこれらの “死への価値づけ・意味づけ” を感じてしまい、僕は苦手なんです。
「死」にまで生産性を求めるわけですかね?
「死を無駄にしない」=「死を価値あるものにする」って、本人や遺族以外の人が口にするのはけっこう危険なことだと思うんです。
小池百合子東京都知事の発言が物議
まず、謹んでお悔やみを申し上げたいと思います。
志村さんといえば、本当にエンターテイナーとして、みんなに楽しみであったり笑いを届けてくださったと感謝したい。
最後に悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています。お悔やみ申し上げます
――この小池都知事の発言が物議を醸しましたが、これもやはり「最後の功績」などと、死に「価値」を求めるような文言を加えてしまったから、それに反発する人が多かった結果じゃないのかな、と思ってます。
悲しいときは悲しむだけでいいじゃない。
死に価値を求めないでほしい。
死に生産性を求めないでほしい。
「無駄な死」も「価値ある死」も無いと思う。
好きな人の死は、ただただ、悲しい。
僕はとにかく志村けんが死んじゃったことが悲しくてたまらない。
イヤでイヤでたまらない。
志村けんには特に思い入れが強かったから……
追記 2020.04.06「志村けん」芸能人を呼び捨てにすること
ここでも一貫して敬称をつけずに書いてきました。
その理由といいますか、僕の考えを別の記事として書きましたので一読くだされば幸いです。
プロフィール
館長と申します。
ホッピーを飲みながら猫をモフっているときが至福の時だと思いますがそういう状況になったことがありません。世知辛い世の中ですね。
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